2−1では、ハワイにおける日本語学校の持っていた役割や、教育システムを取り上げた。
次は、ハワイ日本語学校史のなかでも特に大きなトピックとなった「
アメリカの欧化政策」との対立を取り上げたい。
ハワイがアメリカに併合されたのは1898年(明治31年)のことであり、日本人労働者がはじめてハワイに渡ってから30年の月日が経っていた。
しかしながら、アメリカに併合される以前よりいろいろな国の労働者を受け入れていたハワイが、国籍などの問題を孕んでいたのは当然と言える。下の引用は、それを示す一文である。
「一八九八年にハワイがアメリカ合衆国に併合せられて米国のテリトリーとなり、米国の憲法によって、ハワイに生まれた子供即ち日本人の子弟は自動的にアメリカ市民である。しかし日本人の親は生まれた我が子には(中略)日本の本籍地の町村役場に出生届を出して入籍をした。(中略)こうして一人の子は両方の国籍を持つようになるのである。(中略)これによって種々国際道義問題をおこすこともある。」(
※1)
ここに、1つの国籍問題が発生する。国籍が重複する子どもは、そのいずれの教育をも受けることができる権利が生じる。そこでハワイに存在する公立学校と、日本語学校の対立構造が現れてくる。
中には前にあげた奥村多喜衛のような、「アメリカ市民を育成するための、日本人の子どもたち(日系の児童)を対象とした学校」もあれど、アメリカの教育者にとっては徐々に目に余る存在となっていく。また、日本語学校だけではなく、日系の児童に関しても、少しずつ注目されるようになってきた。
右のデータはハワイの公立学校における日系の児童数である。
1900年から、15年で9倍近く増えていることが読み取れる。これだけ急激な増加を、アメリカの教育者たちが無視できるはずもないのは明らかである。
また、公立学校全体の児童数との割合を比較すると、1900年は児童数15537人に対して日系児童は1552人と、ほぼ10%であったが、1908年には児童数23445人に対して、日系児童は5513人。4人に1人は日系児童になっている。いかに増えているかがわかるだろう。(
※2)
しかしながら、依然として誤解や批判が収まることはなく、ついにアメリカ合衆国政府においても、日本語学校が問題視されるようになった。その大きな動きの1つは1919年。第一次世界大戦が終わりを告げた後のことであった。
「
A.F.ジャッド」は、兼ねてから日本語学校の教育体制に目を光らせていた有識者の1人であり、「ハワイ県の米国市民を保護するため、学校教員に要する資格を規定する法律」を提言したのである。この動きは大きな反響を呼び、それからも日本語学校を標的としたような、教育に対する法律案が次々と挙げられていった。
そしてついに1920年、ハワイにおいて
外国語(専ら日本語)学校を取り締まる法律が成立し、翌年より実施されるに至った。この法律では、「使用する教科書についてはすべてハワイの教育局で定めるものとする」「教育を行う者は英語を理解できる者に限定する」というような規定が盛り込まれ、日本語学校の立場は急激に追い込まれていった。
なんとか危機を脱しようと思い立った日本語学校の教育者たちは、この法律がアメリカ憲法の宗教・教育の自由に違反していると提訴して勝利したが、内部でも反省の動きがはじまり、教科書を再び編纂しようという行動に至った。
(左の写真は、A.F.ジャッドである。画像引用元:Albert F. Judd - Wikipedia,the free encyclopedia)