2−3では、太平洋戦争という状況下で日系人や日本語学校がどのようになったかを述べた。
教育的主導者を失った日本語学校は閉鎖に追い込まれたが、それでは戦後はどうなったのであろうか。
日本語学校を再開するに当たり、いろいろな問題があったのは明白で、「
校舎」「
教材」「
人材」の3つの不足が直接的な日本語学校再開の障害になっていた。校舎は政府に接収されてしまっていたこと、教材は焼却してしまったこと、それまでの教師の多くが別の職業に就いてしまったことがそれぞれ挙げられる。また間接的な問題としては、戦時中に敷かれた"Speak American"『英語で話せ』という指令のために日系人家族のなかで英語と言う共通言語を得てしまったことも挙げられる。元々、日本語学校の設立のきっかけになったのは「日本語を教えることで親子間の会話が成立できるようにする」ことであった。公立学校で英語を学び、日本語学校で日本語を学ぶことで、家庭と社会環境の両方に言語面で対応できる子どもの育成をすることこそ、日本語学校の姿だった。それが必要なくなってしまったのである。(
※1)
太平洋戦争を経て、日本語学校やその教育者たちが置かれている状況は、劇的に変化したと言えるだろう。
しかしながら、日本語学校再開の環境が整えはじめられたのは、戦後間もない1947年のことだった。
【一九四七年十月二十二日、支那語学校の試訴により、外国語学校取締法は米国憲法違反であると判決されると、語学校に関心を寄せていた一般人、特に日本人の心はときめきを覚えた。(中略)かくして、ホノルル在住の元日本語学校長の有志者は相互に勧誘し合い十一月九日にホノルル仏青会館を会場にして会合した。】(
※2)
日本語学校運営の障壁となっていた外国語学校取締法が、アメリカ憲法に違反しているという判決が降りたのである。これは中国語学校の試訴であったが、日本語学校の教育者もこの波に乗るように活動をはじめた。
そして、1948年、いくつかの日本語学校が開始されたのである。ある学校では校長自らが教科書を作成し、またある学校では寺院の一角を借りて、日本語学校を再開した。(
※3)
(右の写真は、ハワイ島コナにある曹洞宗大福寺の隣の建造物。かつては日本語学校であった。撮影は、ハワイ研修した時のもの)