2.ハワイ日本語学校について


 さて、ハワイ日本語学校とは、そもそもいったい何なのであろうか。
 何故そんな学校が設立されたのであろうか。それを考えていかなければならない。
 そのためには、ハワイと日本の関係史を辿っていく必要がある。

MASAYO UMEZAWA DUUS  MASAYO UMEZAWA DUUSの著作によれば、ハワイへ渡った最初の日本人移民は、1868年(明治元年)にアメリカ人商人「Van Reed」に連れられて、サトウキビ畑の契約労働者として働いたとされている。
 日本で言う、明治維新の時期に当たるこの時代に、厳しい経済状況にあった人々がハワイに渡り、少しでも祖国に住む家族たちがお金に困らないように、と労働に当たっていた。
 しかしながら、彼らに与えられた給料は、わずか月々4ドルほどであった。その過酷な労働条件から、日本人たちはたびたび雇用者に対してストライキを起こしているが、それについてはMASAYO UMEZAWA DUUSの著書に詳しい。

 1868年に渡航した日本人は148人(※1)であったが、その後徐々に数を増やしていった。1868年に渡航した人々は、明治元年に渡航したことから「元年者」と呼ばれているが、彼らは明治政府から正式な認可をもらえないまま、渡航している。
 後に明治政府から認められてハワイへ渡航した人々のことを「官約移民」と呼んでおり、1885年から3年間にわたって3万人近い日本人がハワイに渡っている。

 (左は、MASAYO UMEZAWA DUUSの著作"“THE JAPANESE CONSPIRACY 〜THE OAHU SUGAR STRIKE OF 1920〜"である。
 主にオアフでのサトウキビ畑で起こった日本人移民・日系アメリカ人のストライキを取り上げたものであるため、参考文献として使用している。)


 多くの日本人がハワイに渡ったことで、そこで生活の基礎を立てて、生きていこうとする者たちも現れるのはごく自然な流れだろう。
 そんななかで、日本人の家庭にも、ある一つの問題が起こってくる。次の文章は、『ホノム義塾 曽我部四郎伝』という本からの引用である。

「(中略)日系移民の大部分の人々は、教育がなく貧しかった。二世の子供たちは、学校にも行かず、また、家庭でも子供たちに対して躾もせず、捨て猫のようにキャンプに取り残されていた。それは、一世移民の両親が、休日もなく早朝から夜遅くまで、重労働に従事しなければならなかったからである。」(※2)

 労働者である人々が家庭を形成するにつれて、子どもが取り残されている、ということを明確に表している。
 また、『ハワイ日本語学校教育史』では、次のように当時の子どもたちが置かれていた状況を記している。

「官約時代の移民中大部分の者は学校教育を受けていない無学文盲で文字の読み書き出来る者はきわめて少数であった。この移民の人たちがハワイに来て初めに困った事は手紙を書ける人を探す事であった。又この移民の人たちは日本各地から募集されて来た者で、関東、東北、関西、九州と、その語る言葉を方言で話し、互いに通じないため、自分の出身地の者同志が寄り合って、お国訛りの放談をするのであった。
 こうした社会に育つ子供は大体は親の言葉を中心にして色々な方言を覚え、それに、子供には人種国境はなく、ハワイ原地人、支那人、白人など同じ所に住む各国人種の子供と交じって、相手の言葉を敏感に受け取って、互いに自分の意志表示をする。ここに子供の社界の生活語がつくられる。
 「パパ、ハナ・ハナ。ハウス・オラン。」パパは英語Papa。ハナ・ハナはハワイ語Hana hanaで仕事。ハウスは英語house。おらんは日本語のいません。「お父さんは仕事へ行って、家にいません。」
 この子供の生活語を一国語だけ話す人が聞いた時は異様に響くのであるが、日に月に伸び行く子の言葉を聞く親は、この子らにあたりまえの日本の言葉が話せるように教えてくれる人はいないものかと思うようになった。」
(※3)

 この現状を憂いた親たちの声を聴いて、立ち上がった人物、それが神田重英という牧師であった。
 1893年に、ハワイ島のコハラではじめて「日本語学校」が開校され、日本人移民の子どもを対象とした教育がはじまったのである。




<注釈>
※1 元年者の人数には諸説あり、153人、149人とも言われているが、ここでは先のMASAYO UMEZAWA DUUSの著作である”THE JAPANESE CONSPIRACY 〜THE OAHU SUGAR STRIKE OF 1920〜”の本文に従って148人とした。
※2 「ホノム義塾 曽我部四郎伝」中野次郎著 1985年、P.102「12 ホノム義塾の教師たち」より引用。
※3 「ハワイ日本語学校教育史」小沢義浄著、ハワイ教育史、1972年、P.15より引用。
 


2−1.ハワイ日本語学校の役割・教育システム
2−2.アメリカの欧化政策とハワイ日本語学校の対立
2−3.太平洋戦争とハワイ日本語学校
2−4.戦後のハワイ日本語学校

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