4.ハワイ日本語学校から学べること


 これまで、ハワイにおける日本語学校の歴史や教育システム、今日の日本における問題点を述べてきた。
 ここで一度、それらの簡単な復習をしておく。先に、ハワイにおける日本語学校についてである。

T.ハワイにおける日本語学校の設立のきっかけは、
「ハワイに移民した日系一世は、彼らの子どもたちがちゃんとした日本語を話せるように教育してくれる人を求めていた」「キリスト教や仏教を、ハワイに移民した日系一世やその子どもたちに伝道するための一環としての日本語教育が必要だった」ことが挙げられる。

U.日本人労働者たちが「出稼ぎ労働者」という立場から「永住者」としての立場に移行しつつある状況から、「アメリカ市民を育成するための日本語学校」へと日本語学校の目的が変化した。

V.日本語学校は、公立学校に通っていた日本人労働者の子どもたちや二世にとって、一種の予備校であり、公立学校と併用して通学していた。今日でも、「Hawaii Japanese School」に代表されるような日本語学校が、当時と同じ形で運営されている。また、使用される教科書については、歴史上、自主的な編纂を迫られた経緯こそあるが、長期間を日本の文部省(現在の文部科学省)によって定められた教科書を使用している。

W.ハワイにおいて日本語を教える学校というのは、アメリカの知識人にとっては批判の対象であった。

X.太平洋戦争中のアメリカ政府からの指令によって、英語を強制された日系人の家庭及び社会では、そのまま英語が共通語となり、子どもたちが日本語を学ぶ必要性というのが薄れてしまった。戦後しばらくは日本語学校の数こそ維持したものの、1960年代より減少傾向を見せている。また、日本語を教える教育機関も私立学校から、大学や、成人者あるいは日本に行く予定のある子どもを対象にした学校に限られてきている。


 次に今日の日本語学校の問題点について述べる。

T.時間的・内容的な余裕の向上を図って進められてきた「ゆとり教育」が、学力低下を促進しているとして問題視されてきた。そのために新しい学習指導要領では「生きる力」をテーマとして、基礎学力の向上や学校・家庭・地域の関係性の深化を行うという方向性を示した。しかしながら、いわゆる「モンスターペアレント」や、子どもの学習時間の減少・学習内容の削減(※1)などの問題も残されている。

U.「国歌国旗法」の制定や「愛国心教育」の推進の是非と、一部教職員による、国歌斉唱・国歌伴奏拒否の裁判が起こっている。「愛国心教育」は必要であろうか。


 さて、こういった問題を解決するカギとして、私はハワイの日本語学校にヒントがあるのでは無いかと思っている。
 まず「ゆとり教育」の問題と「生きる力」の教育、それを取り巻く現代の教育環境について、どこにヒントを得られるか述べていく。

 週完全5日制である今の日本の公立学校教育において、土曜日と日曜日は休日である。この休日を有効に用いるカギが、今日のハワイの日本語学校の1つ「Hawaii Japanese School」に代表される補習校ではないだろうか。
 ハワイの日本語学校は、私立の教育機関であり、アメリカの公立学校に通う日本人労働者や日系人の子どもたちが公立学校以外の時間で、日本語教育を受ける場所であった。要約すれば、日本語教育のための補習校なのである。日本において一部の学校行事や部活動は休日でも行われるが、部活動の無い小学生であれば、こういった補習校の時間を確保することは十分可能ではないだろうか。もちろん個々の家庭の事情や経済状況もあるので、一概に言うことはできないが。
 「それならば学習塾で良いではないか」という反論も挙がるだろう。しかし、私の示すこの考え方は、必ずしも「学習塾」に一致しない。「学習塾」とは純粋に言うならば、学力を向上させるために学校教育外で子どもに学習させる場所である。しかし、私立学校や名門学校への入学を目指す学習塾が多く、基礎学力の徹底という部分に重点を置いているとは言い難く、「生きる力」と「学習塾」を直接結び付けることは困難ではないだろうか。
 そこで、2章4節でも挙げた「Hawaii Japanese School」のような補習校の登場である。「Hawaii Japanese School」の目的・特色を読んでもらいたい。学校の運営が教職員だけに限定していないという点、文部科学省検定の教科書(すなわちいつも使っている教科書)を使用してるという点は、実に着目すべきところだろう。「学習塾」の多くは、独自の教材を使用しており、いつもの教科書をそのまま使うことはあまりない。(もちろん、学習塾によっては教科書の内容に対応した教材を用いるところもあるが。)学校で用いる教科書を使用すれば、子どもがどこで学習に躓いているかが一目でわかる利点がある。
 また、「生きる力」が具体的にどんな力であるかについては、前の章でも述べたが『確かな学力』『豊かな人間性』『健康・体力』の3つである。2章1節で挙げた曽我部四郎の「ホノム義塾」がどのような教育方針であったかを振り返ると、日本語や歴史、数学といった科目以外にも、礼儀作法や言葉遣いを厳しく指導していたところがある。「学習塾」でここまで指導してくれるところは、果たしてあるのだろうか。  さらにはボランティアの協力という点でも「学習塾」には見られない違いである。これらのように日本語学校からヒントを得るからこそ「生きる力」の教育につながりを持たせることができると私は思う。

 次に「愛国心教育」とそれを取り巻く問題について述べていく。
 前章でも述べたが、私は「愛国心」すなわち「我が国や郷土を愛すること」そのものが間違いであるとは言い難いと思っている。しかし、日本の歴史上、かつては我が国を愛すること=国のために軍隊に入り、戦争に参加すること、という考えを押し付けられてきた現実がある。「教育勅語」は、当時の子どもの教育に大きな影響を与えていたために、戦後は「教育勅語」のような考え方を改めなければならない、という風潮が起き、今日でも続いている。
 しかしながら、「教育勅語」の内容すべてが、戦争に直結するような文章では無いことは、前章の「教育勅語の十二の徳目」の部分で述べた。家族を大切に扱うこと、謙遜の心を持つことと言った、倫理的徳についても「教育勅語」では取り扱っていたのである。
 これは上記の曽我部四郎の教育方針にも重複するが、「生きる力」の『豊かな人間性』を育むための重要な要素になっているであろう。
 「我が国や郷土を愛すること」は、我が国や郷土のことを知らなければならないという前提がある。そのために、学習指導要領では各科目に繰り返し『我が国』というフレーズが入っているのである。
 昨今叫ばれている『異文化理解』や、私の所属している比較文化学科の『比較文化』、といったような多種多彩な文化の違いを考えることについては、何よりもまず私たちが所属している文化を知り、理解しなければできない。こういった理由から、私は「愛国心教育」については、その形状という点から賛成の意見を述べたい。”その形状”と言ったのは、やはり「愛国心教育」の理解が履き違えられ、再び戦争が起きた時に「教育勅語」と同じような扱いをされてしまう可能性がある懸念からである。
 ハワイの日本語学校が、かつてアメリカの知識人から批難を浴びた原因は、いくらか「教育勅語」などの中にある、国のためなら戦争に参加する・死を選ぶとも思われかねない部分に理由があった。しかし、かつての日本語学校は、自主的に教科書の編纂を行い、徹底的に欧化政策に対処しようとした。今の学習指導要領も、研究を重ね、誤解や誇張解釈の無いようなものにしようという動きのなかで、「愛国心教育」を進めて行くべきではないかと私は思う。

 「国歌国旗法」についても、私はその存在自体は問題であるとは思っていない。しかしながら、やはり戦争における「教育勅語」同様に、戦争と強く結びつけられてしまったがために、今日、一部の教職員による反対が起きていることは事実である。「愛国心教育」の問題と同様に、扱い方に十分な注意を払う必要性が問われているのではないだろうか、と私は思っている。
 国歌を斉唱・伴奏しないことも、それに対して懲罰を科すことも、懲罰に反して裁判を起こすことも、「国歌国旗法」そのものが原因ではなく、個人の思想と学校の対応の方法に問題があるように見えるのである。「愛国心」とは何か、我が国の良さ・悪さとは何かを知る必要に迫られているのは、実は子どもではなく、教育者たる大人たちではないだろうか。



<注釈>
※1 琉球大学教育学部紀要「『ゆとり教育』改革と学力」にて、子どもの学習時間の低下のデータが示されているので参照してほしい。



5.結論

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