2−3.太平洋戦争とハワイ日本語学校


 2−2では、アメリカの欧化政策と日本語学校の関係について述べてきた。
 次は、太平洋戦争と日本語学校の関係について、日系人の強制収容を踏まえたうえで取り上げたい。

 日本語学校の教育者の中でも「アメリカ市民を育成するための日本語学校」を目指す気運が高まりつつあったのは、前節で述べたように「教科書の自主的編纂」を代表として現れていたことによる。
 しかしながら、日本語学校に対して厳しい目を持ち続ける風潮は変わらず、太平洋戦争に突入するかという頃には、日本語学校の体制に大きな揺らぎが出てきていた。

 その1つに「日本語学校の米国旗掲揚」(※1)がある。

「(前略)二世市民を相手にしている全ハワイの日本語学校の大部分が、それまでは兎角何事にも無遠慮に日本式を発揮して居り、中には天長節奉祝はもとより殆んどすべての日本の祭日を守り、殊更に勅語を奉読する等、それらの事柄に於て、一向一般米人社会の心理情態などを顧慮しなかったのに、日米関係の形成面白からぬなつたのに気付くと共に、俄かにその態度を急角度に転換したことである。」※2

 教科書を編纂こそしたものの、日本の教育勅語を利用し続けており、日本の祝祭日を使い続けていたことが、戦前の日本語学校にはあった。
 しかし、日米関係の緊張が高まりを見せるにつれて、その態度を変えざるを得なくなりはじめたことが、この引用からわかる。

「先づ第一にホノルルに於て、カリヒ教育財団での決議で、十月七日(注:1940年)月曜日よりその日本語学校の校庭に、毎朝米国々旗を掲揚し、全生徒を整列せしめて厳かに敬礼せしめしのみならず、各教室内にはワシントン、リンコーン等アメリカの偉人達の写真を掲げるに至り、他の日本語学校でもみなこれに倣うやうになり、各島でも同じような行動を執つてゐた。」※3


 ハワイの真珠湾攻撃が行われたのが、1941年の12月のことであるから、その約1年前の話になる。
 アメリカ国旗の掲揚、アメリカの歴史における偉人の写真の掲示が、各島の日本語学校に広まったことで、アメリカの知識人たちは新聞上で賞賛の意を表明した。
 一方、日米の外交関係では、1941年に在外外交官の異動人事が行われ、ますますきな臭くなり、一触即発になるのも時間の問題であった。

(右の画像は、アメリカ軍の所有戦艦である「アリゾナ」が真珠湾攻撃にて爆撃を受けた際の写真である。真珠湾攻撃が引き金となり、在米日本人や日系人のアメリカでの立場はそれまで以上に悪化したと言われている。
 画像引用元:ファイル:USSArizona PearlHarbor.jpg - Wikipedia


 アメリカ政府側も、日米関係の緊張から、日本語学校に対して今までにない監視体制を築くこととなった。次の引用を見ていただきたい。

「この頃(注:1940年代)、連邦政府の諜報員(FBI)からと断って、日本語通訳(殆んど日系人女性)を帯同して、日本人の日本総領事館地方取次人、団体の長、日本語学校々長、僧侶、牧師、神主などの家々を戸別訪問する諜報部員が出現した。職業の事、団体活動の事など、別に特別調査でもなく、常識程度の質問であったが、今までに行ってきた事はほとんどの事を、なにかによって調査していたようでそれを確認の程度であったようだ。二三ヶ月すると、又別の人物が尋ねて来た。※4

 日本語通訳のために、日系人を伴って情報を収集していたことは実際によくあったようで、私が2010年夏にハワイへ研修に行った際、戦時中においてアメリカ軍の部隊に属して日本語の通訳を行った日系人の話を直接聞けたこともあった。


 次の引用は、アメリカ本土での話となるが、当時の日系人の立場がよく表されているため記述する。

「1998年に出版された『Nation』(注:Paul Boyer,"The American Nation",1998)にはこう書かれている。『(中略)パールハーバー攻撃当時、カリフォルニア、ワシントン、オレゴン各州に住む日系人は約11万9000人いた。そのうち3分の1は一世と呼ばれる日本生まれの日本人で、アメリカ政府からは市民権の取れない外国人と考えられていた。あとの3分の2はアメリカ生まれの二世で、れっきとしたアメリカ市民だった。(中略)二世にしても一世にしてもアメリカに忠誠を誓っていないという証拠はどこにも見当たらなかった。にもかかわらず、根強い反日気運が西海岸に住む一部の政治家たちの間に広がり、ついにアメリカ連邦議会を動かして日系人を西海岸から追いやった。(以下略)』」※5

(左の画像は、Paul Boyerの"The American Nation"という、アメリカで実際に用いられている歴史教科書の1つである。画像引用元:Amazon.com:The American Nation

 本土では既にアメリカ市民権を持つ日系二世以降の人々が、一世の数を上回っていたことがわかる。もちろん、ハワイに於いてもその傾向は当然あり、既に移民が禁じられていたこと(排日移民法)、ハワイでの永住を決意した者が多数いたことにより、二世以降の誕生が増えていた。しかしながら、二世の立場としては環境的にも政治的にも苦しい状況に立たされていたことも事実である。日本語学校で学ぶ日本語教育と、公立学校で学ぶ米国教育は、戦争直前ということもあり隔たりが存在した。

 さて、戦時中は日本語学校はどうなっていたのであろうか。
 はじめに真珠湾攻撃直後のことであるが、次のようなアメリカ政府からの指令が広まったとされている。

「この瞬間(注:真珠湾攻撃の意)によってハワイのありとあらゆるものが転倒してしまったのである。(中略)その混乱の中に軍政Marshal Lawが敷かれた。それに続いて"Speak American"『英語で話せ』と指令され。英語の話せない日本人は黙するほかなかった。」※6

 真珠湾攻撃によって緊張感の高まったアメリカでは、その直後よりアメリカ国内にいる日系人を次々と強制退去または逮捕し、強制収容所に入れた。
 アメリカ国籍を持っていようとも、日系人であるがために不当に逮捕された二世もいたことがわかっている。

「ハワイの日系アメリカ人は、人口比率がとても大きかったので、強制退去を強いられた人々は少数にとどまった。 」※7

 しかしながら上の引用を読んでもらうと解るが、ハワイに於いては状況が少し違っていた。一部の日系知識人や教育者に限られたことは、ハワイに住む日系人の数がハワイの経済的基盤を支えていたのではないだろうか。
 ただし、そういった日系人にとって重要な人物が強制退去・逮捕されるということは、ハワイに存在した日本文化を支えていた人々が居なくなるということを指している。特に日本語学校は、宗教を基盤としたものが多く、神社や寺院ともども閉鎖せざるを得ない状況に陥った。(※8

 日本語学校の教育者たちによる自主的な米国市民育成のための努力も、太平洋戦争という時代の大きなうねりには太刀打ちすることができなかったのである。



<注釈>
※1 「五十年間のハワイ回顧」相賀安太郎著、「五十年間のハワイ回顧」刊行会、1953年、P.646のタイトルを引用。
※2 「五十年間のハワイ回顧」相賀安太郎著、「五十年間のハワイ回顧」刊行会、1953年、P.646を引用。
※3 「五十年間のハワイ回顧」相賀安太郎著、「五十年間のハワイ回顧」刊行会、1953年、P.646を引用。
※4 「ハワイ日本語学校教育史」小沢義浄著、ハワイ教育史、1972年、P.280を引用。
※5 「アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争」高浜賛著、アスコム、2003年、P.88〜P89より引用。
※6 「ハワイ日本語学校教育史」小沢義浄著、ハワイ教育史、1972年、P.281を引用。
※7 「全米日系人博物館」公式ホームページより、「日系アメリカ人強制収容所のデータ」概要を一部引用。
※8 「戦後ハワイにおける『沖縄問題』の展開-米国の沖縄統治政策と沖縄移民の関係について-」、岡野・宣勝著、琉球大学、P.4を参照。



2−1.ハワイ日本語学校の役割・教育システム
2−2.アメリカの欧化政策とハワイ日本語学校の対立
2−3.太平洋戦争とハワイ日本語学校
2−4.戦後のハワイ日本語学校

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